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上海留学覚書

上海の片田舎から日常生活(食事・酒・煙草・雑念など)について綴ります。

上海の別称(申)の由来:上海豆知識③




前回は滬の由来についてでしたが、今回はについてです。これは、戦国四君子の一人、春申君黄歇(生年不詳―前238年)に由来します。


上海のテレビやラジオなどで、上海のことを申城と呼んでいることがあります。例えば、天気予報などでは、上海の天気と言わずに申城的天气などと言うことがあります。


戦国の四君子(斉の孟嘗君・魏の信陵君・趙の平原君・楚の春申君)のなかで、春申君はどちらかといえばマイナーな存在ですが、彼は戦国末期に楚という国の宰相を務めた人物で、その最後の領地は春秋時代に呉という国があった地域でした(今の蘇州を中心とした地域)。当地では彼が水利事業を行って人々の生活に安定をもたらした、という伝説が広まりました。


春申君の水利関連の遺跡については、黄埠墩(現江蘇省無錫市)や申港、黄田港(ともに現江蘇省江陰市)などがあり、それ以外の春申君関連の史跡を含めると蘇州・無錫・江陰・常州・湖州・上海など複数の地域に及んでいて、この人物が残した足跡とその伝説を求めることができます。これらはいずれも伝説(言い伝え)なので、必ずしも歴史的事実というわけではないですが、歴代の各地の住民たちが彼の功績を称えて、伝承してきたことは「事実」です。


では、春申君と上海とはどのような関係にあるかというと、清代の書物である『江南経略』(巻一下“黄浦考”)には、


“黄浦為松江府南境巨川。戦国時楚滅越、封春申君黄歇於故呉城。命工開鑿、土人相傳為黄浦、又称春申浦。”
(黄浦は松江府の南の境を流れる大河である。戦国時代には楚が越を滅ぼし、春申君黄歇を旧呉地に封じた。〔春申君は〕水利従事者に命じて大河を開鑿させたので、現地住民は代々黄浦とか春申浦と呼んだ。)


とあり、黄浦江が春申君によって開かれ、当地の人々はそれを“黄浦”・“春申浦”と呼んでいたと記しています。


黄浦江が歴史の表舞台に表れるのは、実は明代に夏原吉という人物が呉淞江を黄浦江と合流させ、黄浦江が太湖の水を海へ排出する主流となってからなのですが、その後、黄浦江は上海の発展を支える“母亲河”(母なる河)となり、その河を開鑿したと伝えられる春申君は、上海の“开山鼻祖”(開祖)として人々の間に記憶されたわけです。


ここから、松江・上海も春申君の領地の一部という言い伝えが生まれ、上海の別称として“申城”(春申君の都邑〔=領地〕)という言葉が用いられるようになったわけです。


こういう話をしていると、どうしても解説調になってしまって、話にオチがつけられません。困っています…。














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