せいじの話は書いていても面白くないし(愉快な事が少ない)、両国のことについても良い話題は少ないので、今までほとんど書きませんでした。
ただ、在中国・上海邦人と在日日本人との間において、某国・某国人に対する考えや思いにはげしい温度差があることに、最近やっと気づいたのです。
一時帰省すると、「大丈夫?」・「危なくないの?」などと周りから聞かれます。全然大丈夫です。むしろ良い生活・良い経験をさせてもらっています。こちらの人々は、海外から来てくれた人に対しては、とても寛容ですし、丁寧に接してくれます。
最近思うことがあるのです。それは、両国にまたがる歴史、つまり「大きな歴史」は、我々個人にも関わるものですが、歴史に関する問題は一個人では解決できません。国と国との関係において話し合いがもたれ、解決していくのでしょう。
他方で、この「大きな歴史」と同じように重要な歴史があると思うのです。それは日々の歴史です。偉大なる哲学者ニーチェは次のように言っています。
「わたしたちは歴史というものを自分とほとんど関係のない遠く離れたもののように思っている。あるいは、図書館に並んだ古びた書物の中にあるもののように感じている。しかし、わたしたちひとりひとりにも確かな歴史があるのだ。それは、日々の歴史だ。今のこの一日に、自分が何をどのように行うかがこの日々の歴史の一頁分になるのだ。」『悦ばしき知識』
ニーチェは、人が日々の行いによって自己形成を行っていること、だからこそ、なにげない生活の連続が、じつは各自の日々の歴史をつむぐこになることについて言っているのだと思います。
この言葉に関連して私が言いたいのは、例えば、在中国・上海邦人の方々や、在日本中国人の方々にも、一人一人の日々の生活があり、両国の“はざま”で様々な思いや考えを抱きながら、日々の歴史をつむいでいっているということ、そして彼らの“声”がしばしば「大きな歴史」によってかき消され、無視されていることです。
最近、《生活在南京的日本人》(南京で暮らす日本人)という中国のドキュメンタリーを見ました。南京に住む4人の日本人の生活を追ったもので、彼らの生活や思いについてインタビューをしています。何度も見てしまいます。
そこにあるのは、「大きな歴史」に影響を受けながらも、日々の生活を送る人々の姿です。詳細は「中国生活-アラフォー中国奮闘記」様の「中国メディア取材の現在〔南京で暮らす日本人〕ドキュメンタリー」というエントリーに詳しいです(「中国生活-アラフォー中国奮闘記」様、勝手に紹介してすいません)。
何気ない日々を送る人びとに寄り添うことから、お互いを理解する糸口がみつかると信じています。